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吉良よし子

参議院議員

吉良よし子 国会質問

国会質問

2019年・第200臨時国会

【参考人質疑】大学入試改革について

議事録

吉良よし子

 日本共産党の吉良よし子です。
 参考人の皆様には、本日は貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございました。
 では、早速伺っていきたいと思うんですが、この間、英語のみならず、記述式に関しても当初から問題点、疑問点等は指摘されてきたと思うんです。とりわけ、先ほど来御指摘のプレテストの試験問題等が公開されるに当たって、様々な意見、疑問が更に声が高まってきたと考えているんですが、私自身もこの大学入学共通テストのプレテスト、問題見てみましたら、断片的な情報が集まった何種類もの文章や図表、会話文など、数多くの資料を読んだ上で、また更に細かい指示に従って解答せよという形式のものだと思うんです。
 これというのは本当に受験生の思考力や判断力、表現力を問う、測るにふさわしい問題になっていると思われるのか、ここが最大の疑問なんですけど、それぞれ四人の参考人の方々から御意見、一言ずつ伺えればと思います。お願いします。

全国高等学校長協会会長(萩原聡君)

 専門の分野ではないので、ちょっと私の方はコメント、決してそれで国語の力を見るという形になるかどうかというふうに言われれば、どうかという、思う部分もありますけど、これについてはちょっとコメントできないということです。申し訳ありません。

日本私立中学高等学校連合会会長・学校法人富士見丘学園理事長・富士見丘中学高等学校校長(吉田晋君)

 私も同様に専門ではないんですが、ただ、一つだけあれだと思いますのは、やはり、これはセンターの方で、先ほど来読み上げました、何ですか、システムの構築に当たっての会議等で、専門家が大学の先生方や高校の教育現場の先生方と一緒に作問をして、そしてそれをということで言っておりますので、それを信頼しているということです。

福井県立大学学術教養センター教授(木村小夜君)

 おっしゃるとおり、今までともうがらっとパターンが変わっているわけですね。非常に断片的である、そして複数の資料をたくさん並べて問うというふうな実用的な文章であるということですね。
 複数テクストが出てくる、テクストという言葉自体もいろいろ問題があるんですが、こういう問題、実際にマークシートの方にもたくさん出ております。これ解いてみますと、見た目は複数のものを比較対照して答えなさいというふうにぱっと見は見えるんですけれども、実際に解いてみますと、本当に二つを比較して何か思考を問うような問題というのは本当に僅かなんですね。実際はその中の一つを、必要なところをばっと探し当てて、それで答えられるような問題が大部分なんです。つまり、表面的に複数の資料をとにかく提示するような問題を作りなさいというふうな枠がどこかにはまっているとしか思えないわけですね。
 それから、今回の一番新しいプレテスト、資料としてお配りしてあるものは、これは一人の生徒がレポートを書いていく、そのために順番にいろいろな文献を発見していくという、そういうシチュエーションで作られています。一回目のプレテストは、資料がどさっとまとめて出されて、それを逐一見るような形だったのを、今回は多少丁寧に、問題を追うにつれて資料が次々出ていくというふうな、こういう改善がなされているわけです。
 しかし、レポートの作成に付き合うという形で問題をもし解くことができたとして、それはレポートを本当に書く能力を測っていることになるのかというと、全然そうではないわけですね。同じように、対話がいっぱい出てきたりもします。これも、これに関する問題が解ければ、じゃ、この受験生は対話力があるのかといったら、これも全く違うわけです。
 ですから、繰り返しになりますけれども、こういう問題の形態というものは、形だけは何かレポートを書こうとか、あるいは複数の資料を比較しようとか、非常に大事な学力を問うているように見せかけながら、実際のところ、解いてみるとそういう力は全く測られていないというふうに私には読めました。
 以上です。

日本大学文理学部教授(紅野謙介君)

 まさに、複数資料を並べて情報の統合や構造化を行わせようというふうにして見せかけておりますけれども、実際は情報のつまみ食い、複雑な情報の詰まっている一つずつの資料を単純化してほかの資料と結び付けて解釈するというような問いが多用されているという点において多く問題があろうかと思います。
 これは、新指導要領の中で、話すこと、聞くことや書くことが強調されて読むことの授業を減らしていく、そういう方針と恐らく連動しておりますので、読むこと自体にきちっと読むということがおろそかになっている傾向にあろうかと思います。その点でも大きな問題だというふうに考えます。

吉良よし子

 おおむね、思考力、判断力、表現力を問うにふさわしいかどうかというのに関しては疑問があるというのが御回答だったかと思います。
 その上で、じゃ、記述式を共通テストでわざわざ問う必要があるのかという疑問も湧いてくるわけです。七日に行った文教科学委員会の質疑の中で、大臣は、国立大学の二次試験においては全体の六一・六%が記述式等を課していないというような答弁をされたわけですけれども、本当にそうなのかという疑問があるわけです。
 先ほど、木村参考人からも、八五%は記述式何らか課しているなどというお話もあったかと思うんですが、大学の教育に携わっている紅野参考人、木村参考人、それぞれお二人に伺いたいんですけれども、実際、二次試験等で記述式を課していないという実態があるのかどうか、所属している大学等での入試、記述式の状況、採点の方法等も含めて是非お答えいただければと思います。

参考人(木村小夜君)

 配付資料にございます意見陳述中の参考文献の①というのが私が申し上げたことの根拠になります。
 今度の共通テストに記述式を入れる根拠となった、その記述が出されていないというのは国語に関してのみのカウントでありまして、こちらの資料を見ますと、記述式問題といいましても本当に単語程度のものを書く、そういう記述問題もあります。そういうものは除いて一定の長さの記述をさせる問題というのがどれだけの割合であるかといいますと、実際にそれを志願者が解答した割合というのを先ほど御紹介しました、これは八五・七%なのですね。問題全体が何問あって、その中で何問記述が出されているかというふうになりますと八七・何%かになったと思うんですね。
 当然のことながら、個別入試を作る側は、その手前にセンター試験、マークシートがあるということを分かっているわけですから、なるべくそれとは差異化して、センターでは測れないものを当然問おうとするわけですから、もう基本は記述なのですね。ですから、センターに記述を入れなくてはならない根拠というものそのものがもう大きく実は間違っていたというふうに私は理解しております。

参考人(紅野謙介君)

 今お話がありましたように、八五%近くは実際に、国語以外の教科も含めますと記述式試験を課していたというのが実態だろうと思います。
 そして、その記述式試験ですが、私の配付資料の一枚目、国公立大学の二次試験出願者・受験者数についてというのに東京大学のケースと京都大学のケースを挙げましたが、御覧のように、そのうちの受験者数のところを御覧いただきますと、大体千人前後、多いところで二千七百ぐらいのものがございます。そして、京都の方でも一部二千人を超えるところはありますが、ほとんどは千人以下と。つまり、記述式試験をやろうとする場合、可能な数字というものがここに大体表れているわけです。
 そして、八五%が記述式試験を何らかの形で、つまり、別に国語じゃなくていいわけです。社会、あるいはまたそれぞれの学問領域に合わせた形のそういう論文形式でも構わないわけですから、それらを課しているという以上、目的に応じて試験の形態というのを変えていく、それで十分問題はないというふうに私も考えます。

吉良よし子

 国公立大学の二次試験等、また私立大学等でも、もう十分に記述式によってそれぞれの受験生の能力を測るということはもう現行上やられていると。さらに、その記述式を採点する規模という、規模感としても適正であると、二次試験等でやることの方が適正であるという、そういう観点からも、共通テストで記述式導入というのはやはりあり得ない選択ではないかなと、意見を聞いて改めて思うわけです。
 改めてですけど、紅野参考人、この間の御著書などでは、記述式試験のみならず、今回の共通テストについては様々問題点があると。先ほど来、実用的な文章の問題等も指摘されているのですが、これらはなぜ問題なのか、是非お考えを聞かせていただければと思います。

参考人(紅野謙介君)

 先ほど実用的文章に関しては申し上げましたけれども、さきの陳述で述べた、条件に合わせた解答を用意するのと同じように、一定の法やルールの中においてのみ解釈をし、その中でどのように交渉するかとか、あるいはどのように振る舞うかとか、こういったことばかりが問いの中に出てきてしまっている。あるいはまた、金太郎あめのように複数の資料が並べられ、会話文が出てくる。これ、国語だけではなく、どの教科にも出てくるんですね。
 つまり、よほど問題作成者たちにこのような形式でやれという指示、命令が出されて、そこから逃れられなくなっているとしか思えないような反復、強迫的反復が起きております。それによって問題の質が落ちているということをやっぱり見なければならないだろうと思います。全体にきちんと読解力を身に付ける、読む力が足りないというふうな意見が出てきている一方で、どうしてこのような逆のことが進められるのか、理解に苦しむところでもあります。
 先ほど申し上げましたけれども、これから求められるところの人材とは逆方向な形で、世界に羽ばたいていって自由に大胆に自分たちの意見を出し得るような、そういう人材を求めるのであれば、このような試験形式になること自体が実は逆行ではないかというふうに私は考えます。

吉良よし子

 多くの懸念があるんだなと感じました。
 やはり、問題の質が落ちてしまうというのは本当に問題だと思っておりまして、私もこの間、プレテストを幾つか見させていただいたんですけど、いや、国語だけではなくて、数学であったり物理であったりしても、様々な太郎さんや花子さんが多数数学の問題に出てくるとか、冗長な文章になっているとか、本当にその能力を測るテストになっているのかということを私自身も疑問を感じた次第です。
 こうした実用的な文章が多用される背景には、先ほど来ちらほらと御指摘あるように、学習指導要領改訂等が念頭にあるのかなということもありますし、その大本にあるのが今回の高大接続改革だということだと思うんですけれども、この高大接続改革の在り方、高校、入試、大学、三つの局面で全部変えていくという話だと思うんですけれども、入試を変えて高校の教育を実効性、実用的なものにするための改革みたいなことになってしまっているけれども、じゃ、実際、それで本当に国語教育どういうふうになっていくのか、懸念等をお持ちでしたら、是非、木村参考人、紅野参考人、それぞれ、この高大接続改革、とりわけ国語教育に関して御意見いただければと思います。

参考人(木村小夜君)

 受験生は、過去の問題を見て、それに類似した問題、業者が出してくる問題集なんかを繰り返し解いて自分の中にある種のパターンをつくっていくわけですね。例えば、この記述問題であれば、その条件をたくさん出されて、それにいかに対応するか、出題意図は何なのかということをまず優先させて考える。文章そのものを読解するというよりも、むしろ与えられた条件をどう読むかとか、問いかけ文どう読むかということの方にどうしても気を取られていく、こういうことになりますね。そういうやっぱり反復をしていくことによって、まさに入試が変わることによって受験生の勉強の仕方当然変わる。それは、受験生が身に付けるその学力が変わっていくということにほかならない。
 だから、それは非常に恐ろしいといいますか、入試の質が、このように、さっき紅野先生も言われましたけれども、がちがちに固められた状態で物を考える、この枠の中で考える。もちろん、入試問題というのは一定の文章が出されてその範囲の中で考えるわけですから、枠というのは当然あるわけです。でも、今申し上げている枠というのはそれとは違うわけですね。こういう書き方をしなさいという、そういう制約の掛け方です。これはやはり、自由に物を考えるという若い人たちの柔軟な発想を、もう受験勉強の段階でどんどん硬直させていってしまうと、そういうふうに思えるわけです。そういう懸念を感じますね。
 それから、教育現場を極力再現しなさいという枠も掛かっているような気がします。生徒と先生の会話、あるいはレポートの作成というふうな、あるいは実用的な書面が読めると。果たして、それだけが言葉というものが駆使される場所なのかということですね。実際、私たちが生きている世界というのはもっと広いわけで、物を考える局面というのは何も教室の中だけではないわけですから、こういう場面場面を直接提示してそれで問わせるというのは、余りにも狭い世界観といいますか学力観といいますか、そういうふうに感じざるを得ません。

参考人(紅野謙介君)

 今回の教育改革のうたい文句は、入試を変えることで高校教育を変えるというふうに言っておりました。しかし、これは本末転倒であります。そもそも、そのような発想に立ちますと、入試を受けない残りの五十万人が視野の外に置かれているということでもあるわけです。
 ところが、にもかかわらず、国語に関して言いますと、論理的では思考力を鍛えるのかと思うとそうではなくて、実用性が顔を出してきて、スピーチの仕方やエントリーシートの書き方、あるいは特別予算の申請の仕方、こういったものを高校一年生の科目の中で学ぶというふうなことが授業の指導計画モデルの中に出てきているわけです。これはやはり大きな問題でしょう。そもそも、書くことを優先するために新書の書評を書くという課題があるんですが、新書を読まずに書評を書くということを先にやるというのが私には理解できないところであります。
 論理と文学という分け方に関してもいろいろ議論があるかと思いますが、文学は小説や詩歌だけを指すわけではなくて、哲学や思想、科学の科学者の文章も広い意味で文学なんです。それを分けてしまいますと、論理も実はやせ細ってしまうというふうな問題点を考えなければいけません。この辺は、実は三位一体の改革であるがゆえに、入試に表れた問題点は、実は高校のカリキュラム、大学の改革に関しても連動している部分があるということは考えなければならない点だろうというふうに思います。
 以上です。

吉良よし子

 ありがとうございました。
 思考力、判断力、表現力を問うとして進められている入試改革ですけれども、実際の問題を見れば、逆にそういう思考や表現を硬直させていったり、論理力を失わせてしまう懸念もあるものになってしまっていると、やっぱりそれは問題だなということをすごく感じたという感想を述べさせていただき、私の質問を終わります。
 ありがとうございました。